はじめに
受験生のみなさんの中には一問一答や用語集を使って勉強をしている人も多いと思います。確かに一問一答は点数に直結しやすく、受験生必須のアイテムではあります。しかし、中にはただ単語を繰り返し覚えるだけで苦痛に感じる人や、覚えてもすぐに忘れてしまうという人もいるのではないでしょうか?
そんな人こそ、もう一度“流れ”を理解しなおすことが必要なのです!
ここでは、点と点が線となるように、基礎的なことからやや踏み込んだことまで、「なぜそうなったのか?」が分かりやすいようにまとめました。
前回は「イスラーム帝国」とも性格づけられるアッバース朝の成立までを整理しましたが、今回はそれ以降のイスラーム世界の発展を取り上げます。8世紀頃のイスラーム世界では、北アフリカから中央アジアまでの広範がアッバース朝の支配下にあり、イベリア半島には後ウマイヤ朝が建国されるといった広がりを見せていました。しかし、アッバース朝の全盛期を築いたハールーン=アッラシード(位786~809年)の没後、エジプトやイランでの独立王朝樹立や、東方イスラーム世界での様々な王朝の発展といった帝国各地での分裂が見られるようになり、カリフの実権は弱まっていきました。とりわけ、トルコ系のイスラーム王朝の樹立がこの時代の鍵になります。それでは早速、各地の発展を詳しく見ていきましょう。
イスラーム世界の形成と発展
Part1
1.イスラーム教の誕生
2.ウマイヤ朝の樹立
3.アッバース朝による「イスラーム帝国」の形成
4.アッバース朝の終焉とイスラーム帝国の分裂
Part2
5. 東方イスラーム世界の発展
6. シリア・エジプトの王朝
7. 北アフリカ・イベリア半島のイスラーム王朝
Part3
8. イスラーム世界の拡大
9. イスラーム文明
10. 確認問題
〔マムルーク〕
騎馬遊牧民としてのトルコ人の優れた戦闘能力を活かし、セルジューク朝は各地への征服活動を行った。やがてマムルークによる強力な軍隊組織を整え、イスラーム世界で確固たる地位を築いたセルジューク朝はその征服活動を通じてイスラーム世界の拡大に貢献した。また、イスラーム世界のトルコ人による支配が広がるにつれて、書き言葉としてのペルシア語がアラビア語圏にも広まった。
※セルジューク朝が西への征服活動を進める中、ガズナ朝はカイバル峠を越えて本格的にインドへの侵入を進め、イスラーム勢力のインド支配を開始した。
〔11世紀後半 セルジューク朝〕
セルジューク朝はスンナ派とアッバース朝カリフを奉じる立場を取り、セルジューク朝初代トゥグリル=ベクの治世には1055年にバグダードに入城してシーア派王朝であるブワイフ朝を破り、アッバース朝カリフからスルタン(支配者)の称号を授けられた。
セルジューク朝はエジプトを支配するシーア派のファーティマ朝と対立関係にあった。そこで、第二代アルプ=アルスラン、第三代マリク=シャーに仕えたイラン系の宰相ニザーム=アルムルク(※セルジューク朝で登用された官僚はイラン系が多かった)はファーティマ朝に対抗するためにニザーミーヤ学院というマドラサ(学院)を主要都市に建設してスンナ派の育成に努めた。
※これに対し、ファーティマ朝は首都カイロにアズハル学院というシーア派の研究機関を建設したが(972年)、アイユーブ朝以降はスンナ派の研究・教育機関として重要な役割を果たすようになった。
マリク=シャーの没後、セルジューク朝は各地の地方政権へと分裂した。マムルーク軍人が立てたホラズム=シャー朝はイラク・イラン西部に成立したイラク=セルジューク朝を滅ぼし(1194年)、1231年まで中央アジア・イラン・アフガニスタンの地域を支配した。ルーム=セルジューク朝(1077~1308年)はアナトリアを支配し、アナトリアのトルコ・イスラーム化を進めた。
〔イラン・イスラーム文化のイメージ〕
トルコ系のセルジューク朝やモンゴル系のイスラーム王朝を中心に、11~14世紀のイスラーム世界で栄えた文化。官僚として徴用されたイラン人たちのイラン文化とイスラーム文化が融合したものを指す。イラン・イスラーム文化の下でニザーム=アルムルクやウマル=ハイヤーム(セルジューク朝)、ラシード=アッデーン(イル=ハン国)などが活躍した。
〔フラグ西進の様子(『集史』より)〕
東方イスラームの制度や文化はシリアやエジプトなどの西方にも流入した。特に、セルジューク朝や、セルジューク朝から自立したザンギ―朝、ザンギ―朝から自立したアイユーブ朝などの時代には盛んであった。ここでは、ファーティマ朝によるエジプト支配、セルジューク朝によるシリア・パレスチナ地方の支配を経て、両地域にわたって樹立したアイユーブ朝、これを倒したマムルーク朝の要点を確認する。
ザンギ―朝の部将であったサラディン(サラーフ=アッディーン)はエジプトに派遣されるとファーティマ朝の宰相となり、1171年にはファーティマ朝を倒してスルタンとなった。こうして彼が樹立したのがアイユーブ朝(1169~1250年)である。
サラディンはスンナ派を奉じてアッバース朝カリフの認める立場を取りつつ、十字軍との戦いにも取り組んだ。1187年には十字軍を破って第一回十字軍に奪われていた聖地イェルサレムを奪還し、第三回十字軍に対してサラディンはリチャード1世と和してイェルサレムの再征服を防いだ。
マムルーク朝(1250~1517年)は、アイユーブ朝の下で勢力が強大化したマムルーク軍団によって建てられたが、特に第5代スルタンのバイバルスが治めた功績によりマムルーク朝の権威は高まった。
<第5代バイバルスの治世(位1260~77年)>
アイユーブ朝からマムルーク朝にかけてのエジプトは経済的にも政治的にも安定した時代となり、両王朝の首都カイロは不安定な状態にあったイラクのバグダードに代わってイスラーム世界の政治・文化・経済の中心となった。
北アフリカでは11世紀半ばにムラービト朝、その後それに代わってムワッヒド朝が樹立した。ムラービト朝(1056~1147年)は西サハラの先住民ベルベル人の間で修道士(ムラービト)に率いられて起こった熱狂的な宗教活動によって興ったイスラーム王朝(首都:マラケシュ)で、ガーナ王国の征服やイベリア半島への進出、レコンキスタのキリスト教勢力を破るなどの精力的な活動を行った。
次第にムラービト朝の宗教的熱狂が下火になって国力が低下すると、これに代わってムワッヒド朝(1130~1269年)が台頭した。モロッコで興ったムワッヒド朝はイベリア半島進出後、レコンキスタ勢力に負けを喫したが、ムワヒッド朝の下では哲学・医学・文学などの学術・学芸分野におけるイスラーム文化が栄えた。ムワッヒド朝の後にイベリア半島に樹立したナスル朝(1232~1492年)が1492年にスペイン王国によって完全に征服されると、イベリア半島のイスラーム支配は遂に終わるが、ナスル朝が建てたアルハンブラ宮殿は、その繊細なアラベスク模様の華麗な建築によって当時の高度なイスラーム文化を示すものとして現代まで残っている。
〔12世紀 ムワッヒド朝〕
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参考資料: