トルコ系イスラーム王朝の樹立
たった15分で要点を総ざらい!受験に役立つ世界史ノート(練習問題付)

世界史

はじめに

受験生のみなさんの中には一問一答や用語集を使って勉強をしている人も多いと思います。確かに一問一答は点数に直結しやすく、受験生必須のアイテムではあります。しかし、中にはただ単語を繰り返し覚えるだけで苦痛に感じる人や、覚えてもすぐに忘れてしまうという人もいるのではないでしょうか?

そんな人こそ、もう一度“流れ”を理解しなおすことが必要なのです!

ここでは、点と点が線となるように、基礎的なことからやや踏み込んだことまで、「なぜそうなったのか?」が分かりやすいようにまとめました。

前回は「イスラーム帝国」とも性格づけられるアッバース朝の成立までを整理しましたが、今回はそれ以降のイスラーム世界の発展を取り上げます。8世紀頃のイスラーム世界では、北アフリカから中央アジアまでの広範がアッバース朝の支配下にあり、イベリア半島には後ウマイヤ朝が建国されるといった広がりを見せていました。しかし、アッバース朝の全盛期を築いたハールーン=アッラシード(位786~809年)の没後、エジプトやイランでの独立王朝樹立や、東方イスラーム世界での様々な王朝の発展といった帝国各地での分裂が見られるようになり、カリフの実権は弱まっていきました。とりわけ、トルコ系のイスラーム王朝の樹立がこの時代の鍵になります。それでは早速、各地の発展を詳しく見ていきましょう。

イスラーム世界の形成と発展
Part1
1.イスラーム教の誕生
2.ウマイヤ朝の樹立
3.アッバース朝による「イスラーム帝国」の形成
4.アッバース朝の終焉とイスラーム帝国の分裂
Part2
5. 東方イスラーム世界の発展
6. シリア・エジプトの王朝
7. 北アフリカ・イベリア半島のイスラーム王朝
Part3
8. イスラーム世界の拡大
9. イスラーム文明
10. 確認問題

5.東方イスラーム世界の発展

5.1 トルコ人によるイスラーム王朝の樹立

  • マムルークの登場
    10世紀以降の東方イスラーム世界の歴史における重要な役割を果たしたのがトルコ人であった。9世紀初めごろから、アッバース朝では奴隷として購入したトルコ人が軍人としてカリフに従事していた。騎馬戦士として優れた能力を持つ遊牧民であった彼らはマムルーク(「所有されるもの」という意味の言葉)と呼ばれ、イスラーム世界諸王朝の軍事の中核を担い、多くのマムルークはエリート軍人となって活躍してその勢力を増大させていった。トルコ人によるイスラーム世界の形成は、マムルークの自立によって樹立したアフガニスタンのガズナ朝や、トルコ人のイスラーム化の結果サーマーン朝を破り、東トルキスタンに樹立したカラハン朝を始めとするルコ系イスラーム王朝の成立以降さらに進展した。

〔マムルーク〕

  • セルジューク朝の成立
    10世紀にはムスリム商人やサーマーン朝下のソグディアナの影響を受け、中央アジアの遊牧民であったトルコ人の間でイスラーム教への集団的な改宗が起こった。こうしてイラン系が中心であった東イスラーム世界はトルコ化を進めてゆくが、中でも広範囲にわたり勢力を及ぼしたのが11世紀前半に興ったセルジューク朝である。

 

5.2 セルジューク朝の領土拡大と諸王朝との関係

5.2.1 セルジューク朝の領土拡大

騎馬遊牧民としてのトルコ人の優れた戦闘能力を活かし、セルジューク朝は各地への征服活動を行った。やがてマムルークによる強力な軍隊組織を整え、イスラーム世界で確固たる地位を築いたセルジューク朝はその征服活動を通じてイスラーム世界の拡大に貢献した。また、イスラーム世界のトルコ人による支配が広がるにつれて、書き言葉としてのペルシア語がアラビア語圏にも広まった。

<セルジューク朝の征服活動>
  • アラル海付近でのトルコ人イスラーム改宗の中でセルジューク朝(1038~1194年)成立。首都はバグダード
  • 中央アジアから西進して、イランを中心にイラク・シリアなどの地域を支配。
  • マンジケルトの戦い(1071年)でビザンツ帝国を破る。
     →アナトリアへ進出。アナトリアのトルコ・イスラーム化。
    (セルジューク朝のビザンツ領圧迫は十字軍遠征の原因ともなった。)

※セルジューク朝が西への征服活動を進める中、ガズナ朝はカイバル峠を越えて本格的にインドへの侵入を進め、イスラーム勢力のインド支配を開始した。

〔11世紀後半 セルジューク朝〕

5.2.2 スンナ派王朝、セルジューク朝

セルジューク朝はスンナ派とアッバース朝カリフを奉じる立場を取り、セルジューク朝初代トゥグリル=ベクの治世には1055年にバグダードに入城してシーア派王朝であるブワイフ朝を破り、アッバース朝カリフからスルタン(支配者)の称号を授けられた。

<ファーティマ朝との対立>

セルジューク朝はエジプトを支配するシーア派ファーティマ朝と対立関係にあった。そこで、第二代アルプ=アルスラン、第三代マリク=シャーに仕えたイラン系の宰相ニザーム=アルムルク(※セルジューク朝で登用された官僚はイラン系が多かった)はファーティマ朝に対抗するためにニザーミーヤ学院というマドラサ(学院)を主要都市に建設してスンナ派の育成に努めた。

※これに対し、ファーティマ朝は首都カイロにアズハル学院というシーア派の研究機関を建設したが(972年)、アイユーブ朝以降はスンナ派の研究・教育機関として重要な役割を果たすようになった。

マリク=シャーの没後、セルジューク朝は各地の地方政権へと分裂した。マムルーク軍人が立てたホラズム=シャー朝はイラク・イラン西部に成立したイラク=セルジューク朝を滅ぼし(1194年)、1231年まで中央アジア・イラン・アフガニスタンの地域を支配した。ルーム=セルジューク朝(1077~1308年)はアナトリアを支配し、アナトリアのトルコ・イスラーム化を進めた。

〔イラン・イスラーム文化のイメージ〕

トルコ系のセルジューク朝やモンゴル系のイスラーム王朝を中心に、11~14世紀のイスラーム世界で栄えた文化。官僚として徴用されたイラン人たちのイラン文化とイスラーム文化が融合したものを指す。イラン・イスラーム文化の下でニザーム=アルムルクウマル=ハイヤーム(セルジューク朝)、ラシード=アッデーン(イル=ハン国)などが活躍した。

5.2.3 イクタ―制の広がり

  • イクタ―制
    政府が地域ごとの徴税権をトルコ軍人に与え、各人の俸給に見合う金額を直接農民や都市民から徴税させる制度イクタ―とは国家から与えられた分与地、またはその土地からの徴税権のこと。国庫収入の減少に伴い、ウマイヤ朝やアッバース朝時代に行われていたアタ―制(政府からの現金俸給)に代わって取り入れられた。
    10世紀半ばにブワイフ朝が最初に導入したが、セルジューク朝の時代に西アジア各地で広く施行されるようになり、イル=ハン国・デリー=スルタン朝・ティムール朝・オスマン帝国・ムガル帝国・サファヴィー朝などでも、これと同じような制度が行われた。エジプト・シリアでは、アイユーブ朝のサラディンによってイクタ―制が導入され、次のマムルーク朝時代に制度が整えられた。

5.3 イスラーム世界へのモンゴル勢力の侵攻

<13世紀のモンゴル勢力による中央アジア・イラン方面への進出>
  • 1219年 チンギス=ハン、ホラズム=シャー朝への遠征
  • 1258年 フラグの西方進出
    • バグダードを陥落し、カリフを殺害する
       →アッバース朝の滅亡
    • イル=ハン国(1258~1353年)の建国
       →イル=ハン国第7代君主ガザン=ハン(位1295~1304年、「イスラームの王」)の時代にイスラーム教に改宗。彼は、イスラーム式の制度の整備やイスラーム文化の保護に力を入れ、初のモンゴル人支配下のイラン=イスラーム文化が成熟した。

〔フラグ西進の様子(『集史』より)〕

 

6.シリア・エジプトの王朝

東方イスラームの制度や文化はシリアやエジプトなどの西方にも流入した。特に、セルジューク朝や、セルジューク朝から自立したザンギ―朝、ザンギ―朝から自立したアイユーブ朝などの時代には盛んであった。ここでは、ファーティマ朝によるエジプト支配、セルジューク朝によるシリア・パレスチナ地方の支配を経て、両地域にわたって樹立したアイユーブ朝、これを倒したマムルーク朝の要点を確認する。

6.1 アイユーブ朝 ◎首都:カイロ

ザンギ―朝の部将であったサラディン(サラーフ=アッディーン)はエジプトに派遣されるとファーティマ朝の宰相となり、1171年にはファーティマ朝を倒してスルタンとなった。こうして彼が樹立したのがアイユーブ朝(1169~1250年)である。

サラディンはスンナ派を奉じてアッバース朝カリフの認める立場を取りつつ、十字軍との戦いにも取り組んだ。1187年には十字軍を破って第一回十字軍に奪われていた聖地イェルサレムを奪還し、第三回十字軍に対してサラディンはリチャード1世と和してイェルサレムの再征服を防いだ。

6.2 マムルーク朝 ◎首都:カイロ

マムルーク朝(1250~1517年)は、アイユーブ朝の下で勢力が強大化したマムルーク軍団によって建てられたが、特に第5代スルタンのバイバルスが治めた功績によりマムルーク朝の権威は高まった。

<第5代バイバルスの治世(位1260~77年)>

  • 1260年、アイン=ジャルートの戦いでシリアに侵入してきたモンゴル軍を撃退する。
  • アッバース家の一員をカリフとしてカイロで擁立する。
  • メッカ・メディナ両聖都を保護下に治める。
  • シリアの領有権をめぐりイル=ハン国とは対立関係にあった一方で、13世紀後半にはイスラーム教を受容していたモンゴル系王朝キプチャク=ハン国との友好関係を結んだ。

アイユーブ朝からマムルーク朝にかけてのエジプトは経済的にも政治的にも安定した時代となり、両王朝の首都カイロは不安定な状態にあったイラクのバグダードに代わってイスラーム世界の政治・文化・経済の中心となった。

 

7.北アフリカ・イベリア半島のイスラーム王朝

北アフリカでは11世紀半ばムラービト朝、その後それに代わってムワッヒド朝が樹立した。ムラービト朝(1056~1147年)は西サハラの先住民ベルベル人の間で修道士(ムラービト)に率いられて起こった熱狂的な宗教活動によって興ったイスラーム王朝(首都:マラケシュ)で、ガーナ王国の征服やイベリア半島への進出、レコンキスタのキリスト教勢力を破るなどの精力的な活動を行った。

次第にムラービト朝の宗教的熱狂が下火になって国力が低下すると、これに代わってムワッヒド朝(1130~1269年)が台頭した。モロッコで興ったムワッヒド朝はイベリア半島進出後、レコンキスタ勢力に負けを喫したが、ムワヒッド朝の下では哲学・医学・文学などの学術・学芸分野におけるイスラーム文化が栄えた。ムワッヒド朝の後にイベリア半島に樹立したナスル朝(1232~1492年)1492年にスペイン王国によって完全に征服されると、イベリア半島のイスラーム支配は遂に終わるが、ナスル朝が建てたアルハンブラ宮殿は、その繊細なアラベスク模様の華麗な建築によって当時の高度なイスラーム文化を示すものとして現代まで残っている。

〔12世紀 ムワッヒド朝〕

 

→続きはこちら イスラーム文明と各地のイスラーム化

参考資料:

  • 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
  • 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
  • 世界の歴史まっぷ 
    • 最終閲覧日2020/7/6
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