はじめに
受験生のみなさんの中には一問一答や用語集を使って勉強をしている人も多いと思います。確かに一問一答は点数に直結しやすく、受験生必須のアイテムではあります。しかし、中にはただ単語を繰り返し覚えるだけで苦痛に感じる人や、覚えてもすぐに忘れてしまうという人もいるのではないでしょうか?
そんな人こそ、もう一度“流れ”を理解しなおすことが必要なのです!
ここでは、点と点が線となるように、基礎的なことからやや踏み込んだことまで、「なぜそうなったのか?」が分かりやすいようにまとめました。
最後の練習問題で満点を取れるように頑張りましょう!!
古代ギリシア世界
1. 地中海世界とは?
2. エーゲ文明
3. ポリスの成立
~コラム・アテネの名所~
4. アテネ民主政
~コラム・アリストテレスとポリス~
5. ペロポネソス戦争
6. マケドニアの台頭とヘレニズム時代
7. 練習問題を解いてみよう!
古代ギリシア世界 Part3
スパルタは紀元前550年頃に、軍事協力を目的としてペロポネソス半島諸ポリスを集め、ペロポネソス同盟を結んだ。そして、ペルシア戦争後勢力を強めたアテネを脅威に感じたスパルタと、アテネが紀元前431年に衝突し、勃発したのがペロポネソス戦争である。
ペロポネソス戦争はアテネを中心とした民主政ポリスと、スパルタを中心とした貴族政ポリスの対立という構図になったが、結果、ペリクレスを失ったアテネはペルシアと手を組んだスパルタに敗れた。その後も、エパメイノンダスの活躍でスパルタを破り覇権を握ったテーベや、のちに勢力を復活させたアテネなどの有力ポリスの間で争いが起こり、ギリシア世界は不安定な状況が続いた。また、それらの戦争の中で主戦力がポリス市民軍から傭兵にとって代わられ、ポリス市民の団結も弱まっていった。
ペロポネソス戦争以降のポリスの変容と混乱の中で大きな転換点となったのが、紀元前338年のカイロネイアの戦いである。
ギリシア世界では多くの都市でポリスが形成されたが、ドーリア系ギリシア人の王国、マケドニアは独自の発展を遂げていた。紀元前4世紀半ばに国を治めていた国王フィリッポス2世はマケドニアの軍事的・文化的発展に大いに貢献した。また、彼は紀元前338年にカイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破り、スパルタ以外の全ギリシア都市を集めてコリントス(ヘラス)同盟を結成する。ここで、マケドニアがギリシア世界の新たな覇権国となった。
フィリッポス2世の死後、彼の遺志を継いだのが子であるアレクサンドロス大王であった。彼はペルシア征服を目指し紀元前334年からギリシア軍も従えて東方遠征を始め、10年ほどで東地中海沿岸部からインド西北部に至る大帝国を築いた。
〔アレキサンドロス大王〕
B.C.334年 | 東方遠征開始 |
B.C.333年 |
イッソスの戦い …ペルシア王ダレイオス3世を破り、エジプト征服 |
B.C.331年 |
アルベラの戦い …ペルシアを破る。アケメネス朝ペルシア滅亡 |
B.C.323年 |
アレクサンドロス大王、急死 ※このころにはインダス川流域まで帝国を広げていた。 |
B.C.301年 |
イプソスの戦い …帝国三分へ
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イプソスの戦いはディアドコイ戦争の一つであり、帝国の分裂を決定づけた戦いとして知られる。ディアドコイとは「後継者」を意味し、アレクサンドロス大王の死後、彼の後継者の将軍たちは大帝国の領土を奪い合った。その結果、アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトの三王国が分立することになったが、紀元前1世紀後半には三国ともローマ帝国の侵略によって滅亡した。
アレクサンドロス大王の東方遠征開始から最も長く続いたプトレマイオス朝エジプトが滅亡する紀元前30年までの300年間は「ヘレニズム時代」と呼ばれる。
アレクサンドロス大王は東方遠征によって、それ以前には例を見ないほどの広範囲にわたる大帝国を築いたが、その成功を支えたのは彼の東西融合政策であった。
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(解答)
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(解答)
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参考文献: