日本史を基礎から復習!お墓から「古墳時代」を読み解く

日本史

変わる!現代人のお墓の価値観

今や日本人にとっては、亡くなった人をお墓に納めるというのはごく一般的なことです。ただ、最近は少子高齢化や核家族化が進んでいく中で、お墓の維持や管理をすることが大変になり、お寺や自治体が運営して納骨の維持や管理を行ってくれる納骨堂がだんだんと増えているということを耳にします。死に対する考え方がだんだんと変化してきているのでしょうね。家族単位でお墓を所有するというのは少なからずご先祖様を大切にし、「家族」という血縁的な集団を継承していくという意志が強かったのだろうと思います。

しかし、最近はだんだんと社会の風潮が集団よりも「個」を大切にする時代に代わってきており、そこに少子高齢化による後継ぎ問題といのも相まって、お墓の在り方も、「集団」の価値よりも「個」に価値をおく文化に代わってきているのだろうと思います。このことが一概に良い悪いということは言えませんが、このように時代によってお墓の在り方に対する価値観も変わってくるのですね。 

さて、今回学んでいく古墳時代は、まさにお墓が主役の時代です。この時代のお墓は物凄く広大なお墓が莫大なお金や多くの労働力をかけて作られていました。しかも、そんなに大きなお墓をつくったのにも関わらず、そのお墓の中に埋葬されるのはたった一人だけです。考えてみればおかしな文化です。

しかし、古墳時代は巨大なお墓がそこに埋葬される人の権力の強さを象徴していました。これぐらい巨大なお墓に埋葬されるぐらいの偉大なお方が、この地に有らせられたのだぞということを内外にアピールしていたのです。

大阪府にある日本最大の古墳である大仙陵古墳は有名ですね。あの古墳には仁徳天皇という日本の第16代の天皇がねむっているのです。きっと仁徳天皇はこの時代を代表する偉大な政治家だったのだろうと推測されます。そしてこうした古墳は全国各地につくられていきました。 

古墳時代がどのように誕生し、そしてどのようにして消えていったのか、その様子を今から見ていきたいと思います。 

古墳時代は3つに区分される!! 

古墳時代とは3世紀後半から7世紀ごろの時代で、弥生時代の共同墓地とは違った巨大な古墳がつくられるようになった時代のことを指します。この時代の古墳は、円墳や方墳・前方後方墳や前方後円墳などさまざまな形がみられます。

ちょうど古墳時代は、日本で統一国家が出来上がりつつあった時代と重なります。その統一国家とは、皆さんご存じの大和国家(ヤマト政権)ですね。ヤマト政権は3世紀末に成立し、遅くとも4世紀の中ごろまでには、畿内を中心として中部地方から西日本に至るまでの国土を統一していたといわれています。

そもそもヤマト政権がなぜ、畿内地域から発展したのかといいますと、ちょうど畿内の位置する現在の近畿地方は、瀬戸内海を通じて大陸の文化を取り入れることが容易な地域であり、また良質の砂鉄も産出されそれを用いて鉄器の生産が進んでいて、それが武具や農具に使用され、軍事的にも農業の生産的にも、他の地方よりも優位に立っていたことが、その要因と考えられています。

そして大和周辺の地域では強大な豪族たちが数多く発生し、彼らを各地の首長とする連合政権が誕生しました。そして各地の首長たちがこぞって巨大な古墳をつくり、その権威を内外にアピールしていたわけです。そんな古墳時代は大きく分けると3つに区分されます。

3世紀後半から4世紀にかけての前期、4世紀末から5世紀にかけての中期と、6世紀から7世紀にかけての後期の3つの区分です。前期・中期・後期にはそれぞれ古墳の特徴があります。墓室の形・古墳の大きさ・副葬品・埴輪の形など、それぞれ時代で異なる特徴を持っています。

それぞれにどんな違いがあって、その違いはなぜ生じてくるのかということを当時の時代背景と照らし合わせつつ明らかにし、古墳時代の歴史を振り返ってみたいと思います。 

前期はシャーマン的な人が活躍!? 

前期の古墳で重要な墳形は前方後円墳です。かぎ穴の形をしたおなじみの形ですね。数の多さでは円墳や方墳のほうが多いですが、大規模なものはいずれも前方後円墳となっています。

前期の古墳としては、岡山県にある全長138mの前方後円墳である浦間茶臼山古墳や、福岡県にある全長120mの前方後円墳である石塚山古墳、奈良県天理市にある前方後円墳である西殿塚古墳などがあげられます。

出現期の最古の古墳に奈良県桜井市の纏向遺跡内にある箸墓古墳があり、西殿塚古墳はこれに次ぐ大王墓として知られています。ちなみに箸墓古墳は卑弥呼のお墓なのではないかという説もあります。 

前期の古墳の内部構造は、竪穴式石室となっています。これは、墳丘の上から長方形の穴を掘って石室をつくり、そこに死者の棺を納めるという埋葬方法です。この方法では、他の人が亡くなった時に追葬することができず、この頃は単独葬が一般的であったということがわかります。 

また、副葬品にも大きな特徴・傾向があります。副葬品というのは、亡くなった方と共にお墓の中に埋葬する品物のことです。例えば現代でも、生前に野球が大好きだった人には野球のタオルやユニフォームを一緒に棺に入れたり、果物が好きだった方には果物を一緒に棺の中に入れたりと、その人の生前の趣味趣向に合わせた副葬品を死者と一緒に葬ることがあります。

つまり、副葬品の中にはその人が生前に大切にしていたものや価値観というものが反映されるわけです。そのようなことを踏まえながら、前期の古墳の副葬品を見てみますと、玉・剣・腕飾り(腕輪型石製品)・三角縁神獣鏡をはじめとする銅鏡などの品物が古墳の中に埋葬されています。

すなわち、呪術的・宗教的な色彩の強い副葬品が多く収められているわけです。このことが何を意味しているかと言いますと、古墳に納められている有力者は、おそらく呪術的・宗教的な権威をもって世の中を支配していたのだろうということがわかるわけです。 

さらに、古墳の周りに並べて置かれる埴輪(はにわ)の形にも特徴があります。埴輪とは粘土で作られた素焼きの製品です。みなさんが良く知っている埴輪ですと土の人形をイメージするかと思いますが、その形は時代によってさまざまな形に作られていました。

前期の古墳で多かった埴輪の形は円筒埴輪でした。円筒埴輪は単に、お墓の範囲を明示したり、土砂崩れを防いだり、という実用的な意味合いで用いられていたと考えられています。

しかし、前期の後半ぐらいになってくると家の形をした家型埴輪や道具の形をした器材埴輪などの形象埴輪が用いられるようになりました。これは、古墳に葬られている首長の執り行ってきた儀式の様子を復元したり、首長の権威を示したりするために、置かれるようになったのではないかと考えられています。このように埴輪一つとっても、その性格や意味合いというのが表現されているのです。 

前期では、巨大な個人の古墳をつくり、そこに宗教的・呪術的な意味合いを持つ副葬品や埴輪を並べることで、首長たちの強大な権威をアピールしていたのだなということがうかがえます。 

中期は武力のある人が権力を持つ時代!! 

続いて中期の古墳についてです。中期は4~5世紀の期間で、古墳時代の最盛期となっています。この時代も円墳や方墳がみられますが、やはり大きな古墳はいずれも前方後円墳となっています。

代表的な中期の古墳としては、なんといっても古墳時代最大の古墳である大阪府堺市にある大仙陵古墳がまずは挙げられます。この古墳は、仁徳天皇のお墓であると考えられており、墳丘の長さが486メートルで三重の周濠があり、墓域も80ヘクタールにも及ぶ超巨大な前方後円墳となっています。

それに次ぐ、大きさを誇るのが、これまた大阪府の羽曳野市にある誉田御廟山古墳です。こちらの古墳は墳丘の長さが425メートルで高さも36メートルを誇る強大な古墳となっており、応神天皇のお墓であると考えられています。大仙陵古墳と誉田御廟山古墳はいずれも、百舌鳥・古市古墳群の中心となる古墳で、2019年に百舌鳥・古市古墳群は世界文化遺産に登録されました。これらの古墳は建造するまでにかなり多くの人手と時間を有数していたと考えられています。

実際に大仙陵古墳の築造には、1日あたり2000人の人が動員されて、延べ人数としては680万人の人員と、15年8か月の期間が必要であったといわれています。それほどな労力と時間をかけて強大な古墳がつくられていったのは、当時ヤマト政権のトップに立つ大王がその確固たる地位を証明するためであったのだろうと推測されます。

そのほかにも、中期の巨大な前方後円墳は群馬県・京都府・岡山県・宮崎県などにもみられます。例えば、岡山県にある造山古墳は墳丘の長さが360メートルもあり、日本列島の古墳の中で第4位の規模を誇る巨大な古墳となっています。

このことは、それらの地域に住む豪族たちがヤマト政権の中での重要なポジションを担い、それなりの権力を握っていたのだろうということが推測されます。このように古墳の分布状況から、ヤマト政権の政治連合のあり方を読み解くことできます 

さて、そんな超強大な古墳が多く出現する中期の古墳の特徴を見ていきましょう。前期の古墳との違いをよーく比較しながら確認していってくださいね。 

中期の古墳の内部構造は、前期と変わらず竪穴式石室になっています。縦に穴を掘って、棺をその上から入れる、追葬をしない埋葬方法でしたね。やはり自らの権威を示すという意味では巨大な墓に一人で眠っていたほうがその理にかなっているのでしょう。

しかし、前期と決定的に違うところが副葬品です。前期は呪術的・宗教的な副葬品が多かったですが、中期になると鉄製の武器や武具、馬具といった戦闘で使用するような品物を副葬品とするケースが多くみられています。このことは、被葬者の武人的な性格が強まったことを示しています。

おそらく中期になって、大王や豪族が、それまでの呪術的な権威ではなく、武力をもって世の中を治めることに政治の重きが置かれるようになったのではないかということが推測されます。実際にこの時期には、大和国家が朝鮮に出兵して、当時朝鮮半島に存在していた高句麗という国と戦闘していたという記録が、高句麗の好太王の功績を記した好太王碑文の中に残っています。 

埴輪は、人物埴輪・家型埴輪などの形象埴輪が多くなっています。 

広がる古墳の流行!! 

中期に最大規模の古墳が完成されていくと、その後古墳はだんだんと衰退していくことになります。だいたいどんな流行でもそうなのですが、初めはごく一部の人たちからその流行が始まります。それがだんだんと少しずつ広がっていき、最終的にほとんどの国民の中で流行った時に、その流行は衰退していきます。これは古墳時代も同じでした。

最初は、大王や強大な豪族という一部の特権的な人たちが、莫大な人員とお金と時間をかけて巨大な古墳をつくりました。しかし、その流行は4~5世紀の中期に最盛期を迎えることになります。そうすると次はどうなるかといいますと、大王や豪族だけでなく、古墳の流行がかれらよりも地位が下の有力な農民やその家族にまで広がっていきます。いってみたら特権的な流行が世俗化してくるわけです。そうなると、流行の消滅はもう間近です。 

というわけで、6世紀の古墳時代後期になると古墳は有力な農民層にまで広がっていきます。しかし、かれらには大王や有力な豪族のように莫大なお金はありません。だから、古墳の規模を縮小せざるを得なくなり、円墳を中心とする小さな古墳が群をなして形成される群集墳が古墳の一般的な形になります。

また後期の古墳の中には石室の壁面や棺に彫刻や模様を施した装飾古墳なんかも見られます。代表的な後期の古墳としては、宮崎県の西都原古墳群や埼玉県の吉見百穴古墳、奈良県の藤ノ木古墳、福岡県の珍敷塚古墳などがあげられます。装飾古墳は主に九州の北部で発見されています。 

後期の古墳は、石室もそれまでの竪穴式石室でなく横穴式石室代わっていきます。これは、遺体を納める玄室と、玄室までの通路となる羨道からなる石室で、横に穴をあけて羨道を通して玄室に棺を納める方法であるため追葬が可能になりました。

つまり、家族の構成員が後からご先祖様と同じお墓に埋葬されることができるようになったのですね。さらに、副葬品にも変化があり、これまで用いられていた埴輪や葺石が廃れ、代わりに実用的な須恵器土師器などが埋葬されるようになりました。

このことは、古墳を権力誇示の場所とするのではなく、死後の生活の場とするという価値観に変化したことが読み取れます。これはなんとなく現代の価値観に近いところがあるかもしれませんね。そんなふうにして巨大な古墳が衰退していきました。 

ただ、有力農民層までもが古墳をつくるようになったというのは別の見方をすることもできます。それはそれまで各地の有力な首長(豪族)だけで構成していたヤマト政権の中に、新たに台頭してきた有力な農民層までもがその支配下に直接入れられるようになったということです。 

また、全国の巨大な前方後円墳は後期にかなり減りましたが、畿内周辺では依然として巨大な前方後円墳が営まれていました。ということは、それまでの大王と豪族の連合政権という政治体制から、大王を中心として各地の豪族や有力農民が服属し支配されるという一種の中央集権的な政治体制が確立されつつあったのではないかという見方もできるのです。 

古墳時代の終焉

 7世紀古墳時代終末期になると、八角墳と呼ばれる八角形の墳丘を持つ古墳がみられるようになります。このお墓は天皇がつくったお墓であると考えられているのですが、これは自らが豪族を超越する地位の存在であるということを誇示し強調するために、今までの前方後円墳とは違った形の古墳を天皇が作り始めたのではないかと考えられています。

しかし、日本に仏教が流入してきて火葬が一般的になってくると、だんだんと古墳は衰退し廃れていくようになりました。 

まとめ 

お墓の意味やあり方というのは時代によって変わっていきます。古墳時代は最初のほうはそこに埋葬されている人の権力を誇示するために作られていましたが、後期になってくるとそこを死後の生活の場ととらえて、古墳を作るようになりました。

現代でもそのあり方や意味付けは時代を経るごとに変わっています。お墓からその時代の特徴や背景が知ろうとするのもおもしろい試みなのかもしれません。 

さて、次回は同じ古墳時代でも古墳からではなく、日本に存在する遺跡や中国の歴史書から、当時の人々の生活や世界の国々との関わりがどのようなものであったのかということを、ひも解いていきたいと思います。 

 

<参考文献

 安藤達朗『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』,東洋経済新報社,2016p19-p25
『詳説 日本史B』山川出版社,2017 ,p47-p50
向井啓二『体系的・網羅的 一冊で学ぶ日本の歴史』,ベレ出版,p45 p47 

 

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