日本史を基礎から復習!中国の歴史書から知る「弥生時代」

日本史

争いの弥生時代 

弥生時代は争いの絶えない時代でした。3世紀から4世紀にかけて、農耕文化が日本の社会の中に浸透するにつれて、富める者と貧しい者との間で貧富の差が生まれてきました。

また、人々は農耕を効率的に進めていくために集団をつくり、そこから集落が形成されていきました。そして各集落はよりよい土地を獲得するために争い合います。

その過程の中で、力の弱い集落が強い集落に吸収される形で、一つの集落が巨大になっていき、ここに小国(クニ)が誕生していきました。当時はそうした小国百余国存在し、乱立していたことが中国の歴史書からうかがい知ることができます。

そこで、この章では中国の歴史書から、弥生時代の戦乱の様子や、その小国がいかにして一つの国家に近い形にまとまっていったのかという歴史を見ていきたいと思います。 

ところで、なぜ日本の弥生時代の歴史が中国の歴史書にのっているのかわかりますか。それは、当時の日本の小国のトップの人たちが中国に使者を送っていたからです。

では、なぜ当時の小国の王たちは中国に使者を送っていたのでしょうか。実は、今でこそアメリカが世界トップの国と言われていますが、当時最も経済的にも文化的にも世界のトップを走っていたのが中国だったのです。

そして中国は当時、周辺の国々に自分たちのところに貢物を持ってこさせて、その代わりに中国がその国を国として認めてやるという立場をとっていたのです。これを冊封体制と言います。

すなわち日本の小国の王たちが中国のもとに使者を送っていたのは、中国から「俺たちこそが日本国のトップなんだぞ」「俺たちこそが本物の日本国なんだぞ」ということを証明してもらうためだったのです。

そして、当時貢物をもって来ていた日本の使者たちから当時の日本の様子を中国の皇帝が聞いていたのでしょう。その見聞が中国の歴史書に記されるようになり、現在私たちは弥生時代の日本の社会についてうかがい知ることができるのです。 

というわけで、この章では中国の3つの歴史書、『漢書』地理誌『後漢書』東夷伝『魏志』倭人伝、から日本の弥生時代の歴史を振り返っていきたいと思います。 

 

百余国に分かれていた日本 

さて、まずは『漢書』地理誌からです。これは1世紀ごろに後漢の歴史家である班固が完成させたといわれています。内容は以下の通りです。 

 

夫(そ)楽浪(らくろう) 海中(かいちゅう)に倭人有り。分れて百余国を為す。歳時(さいじ)を以て来り献(けん) 見(けん)すと云う。(原漢文)

 

前漢の武帝が朝鮮半島に四郡を設置していました。その四郡というのが、真番郡・臨屯郡・玄菟郡・楽浪郡です。

このうち、真番郡と臨屯郡は廃止され、玄菟郡も規模を縮小し、朝鮮半島には楽浪郡だけが残っている状況でした。その楽浪郡に倭人(日本人の使者)が定期的に貢物を持ってやってきていたということが、『漢書』地理誌の中に記されています。

そして、その倭人の国は百余国に分かれていたということが書かれていて、ここから日本国が当時分裂して争っていて、それぞれの小国の王たちがこぞって中国が朝鮮半島に設置した楽浪郡に使者を送っていたということをうかがい知ることができます。 

 

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次に『後漢書』東夷伝です。こちらは中国の宋の時代に范曄という人が記したものです。この中には、倭(日本)に関する記述が大きく分けて3つあります。以下の原文を読んでみてください。 

 

建武(けんむ) 中元(ちゅうげん)二年、倭の奴(な) 国(こく)貢(みつぎ)奉(ほう)じて朝(ちょう) 賀(か)す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南海なり。

光武、賜(たま)ふに印綬を以てす。

安帝の永初元年、倭の国王帥(すい) 升(しょう) 生(せい) 口(こう)百六十人を献じ、請(せい) 見(けん)を願ふ。

桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相(こもごもあい) 攻伐(こうばっ)して歴年主なし。(原漢文) 

 

まずは一つ目の、「建武中元二年…」の記述からです。建武中元2年というのは西暦にすると57年であるといわれています。この年に、倭(日本)の奴国という小国の王が使者を送って、中国の光武帝から印綬を受け取ったということが書かれています。

印綬というのは、ひものついた金印のことです。この印綬が1784年に福岡県の志賀島から百姓甚兵衛という人によって発見されており、また、福岡県の須玖岡本遺跡からは奴国の王墓とみられる墳丘が発見されていて、倭の奴国という小国は福岡県福岡市の付近にあったのではないかということが推測されています。

ちなみに、光武帝から賜った印綬に刻まれていた文字が、みなさんご存じの「漢委奴国王」です。「委」の文字が「倭」でないことに注意してください。この印綬によって後漢の光武帝が倭の奴国王の倭国での地位を認めてあげたのですね。 

 

次に二つ目の記述、「永初元年…」のところについてみていきましょう。永初元年というのは西暦で言うと107年であるといわれています。倭国王のらが奴隷160人を後漢の安帝に献上して謁見をお願いしたということが書かれています。

「生口」というのが「奴隷」のことと推測されています。後漢の皇帝に仕える技術者として奴隷が献上され、その見返りで倭国の王としての地位を認めてもらおうとしていたのだろうということが読み取れます。 

 

三つ目の「桓霊の間…」についての記述をみていきます。桓霊の間というのは西暦で言うと147年~189年の間で、後漢の桓帝・霊帝の時代です。

この時に倭国が非常に大きく乱れて、小国が互いに戦いあい、長い間これを統一する王が生まれなかったということが書かれています。ここから日本は倭国大乱という大きな国内争いに入ったことが読み取れます。 

 

女王、卑弥呼の登場!!

さて、倭国大乱で大いに国が乱れていた状況で、最終的にこれをまとめた人物がいました。この人物こそが女王卑弥呼です。彼女に関する記述と彼女が支配していたと考えられている邪馬台国連合に関する記述が『魏志』倭人伝の中に記されています。

こちらの『魏志』倭人伝のほうは、中国の西晋時代の歴史家である陳寿がまとめたといわれています。『魏志』倭人伝に記載されている倭に関する記述は以下の鳥です。 

 

 

倭人は帯方の東南大海の中に在り。山島によりて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国。漢の時朝見(ちょうけん)する者あり。

今、使訳通ずる所三十国。…国国市有り、有無を交易し、大倭(だいわ)をして之を監せしむ。

女王国より以北には、特に一(いち)大率(だいそつ)を置き諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都(いと)国(こく)に治す。…

其の国、本(もと)亦(また)男子を以て王と為し、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、及(すなわ)ち

共に一女を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼(き)道(どう)に事(つか)へ、能(よ)く衆を惑はす。年已(すで)に長大なる

も、夫(ふ)婿(せい)無く、男弟有り、佐(たす)けて国を治む。…

景初二年六月、倭の女王、大夫難(な)升(し)米(め)等を遣はし、郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せむことを求む。

太守劉(りゅう)夏(か)、吏を遣はし、将(ひき)い送りて、京都に詣(いた)らしむ。其の年十二月、詔書(しょうしょ)して倭の女王に報じて曰く

「…今汝(なんじ)を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮(ゆる)し、装封(そうふう)して帯方の太守に付し、仮授(かじゅ)せしむ。…」と…

卑弥呼以て死す。大いに冢(つか)を作る。径百余(よ)歩(ぶ)徇葬(じゅんそう)する者、奴婢(ぬひ)百余人。更に男王を立てしも、国

中服せず。更々(こもごも)相誅殺(ちゅうさつ)し、当時千余人を殺す。復(ま)た卑弥呼の宗女壱(い)与(よ)年十三なるを立てて王と為し、国中遂(つい)に定まる。(原漢文・一部省略)

 

 

ちょっと長いですが一つずつ見ていきます。

まず、「倭人は…」の段落では、かつて倭国は100余りの国に分かれており、漢の時代に中国の皇帝に謁見してくる者がたくさんいたが、現在は30国ぐらいしか使者を送ってきている国がないということが書かれています。

そして国々には、市があって物々交換をしていて、大倭という役職の人がこれを監督している状況であるということが読み取れます。物々交換の経済活動が弥生時代には行われていたことがわかります。 

次の二段落目の「女王国より…」の段落では、女王の国(=邪馬台国)より北側の国々には一大率という役人を置き、これが諸国を監視していて、諸国はこれを恐れているという記述がなされています。そしてその一大率という役人は、普段は伊都国という国に駐在していると書かれています

伊都国は朝鮮半島や魏(中国)の帯方郡との外交を担っていた国で、現在の福岡県糸島郡付近に位置するといわれています。邪馬台国の卑弥呼はここに監督官を駐在させて、自分の支配地域を全て管理下にいれ監視していたようです。 

三段落目の「其の国…」からの記述をみていきますと、邪馬台国というのはもともと男の王が70年~80年間ぐらい君臨していたが、その間は倭国大乱がずっと続いており、そこで女性の卑弥呼を王として迎え入れたところ、国がまとまっていったということが書かれています。

また、卑弥呼は呪術に長けていて、その能力をもって民衆を動かし国をまとめていったということが記述されています。卑弥呼はかなりの高齢であったため、夫がいなかったこともあって弟が卑弥呼のことを支えながら政治をやっていたようです。 

次の四段落目「景初二年六月…」からの記述をみていきましょう。景初二年というのは実は景初三年の間違いだといわれているのですが、これまた日本史の中では重要な年号でして、西暦でいうと景初三年は239年のことを指します。この年に、女王卑弥呼が大夫(大臣)の難(な)升(し)米(め)らを帯方郡に派遣して、魏の皇帝への謁見を求めたと書かれています。

そして難(な)升(し)米(め)らは、役人に魏の都である洛陽へと送り届けてもらい、その年の12月に魏の明帝から女王卑弥呼に対しての詔書を受け取りました。

その中には、「いまあなたを親魏倭王として、金印紫綬を授ける」という記述が書かれていました。つまり、239年に卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」の称号を授かって、倭国での指導権を確固たるものにしていったのですね。 

最後の段落では、卑弥呼が亡くなった後の邪馬台国についての記述がなされています。卑弥呼が亡くなった後、人々は大きなお墓をつくって悲しみの中彼女を葬りました。その墓には、径百余部の墳墓がつくられ、奴隷百余人が共に殉葬されました。その後倭国内は再び荒れ、男王を新たな王にたてるも争いは収まらず、卑弥呼の宗女である壱与を女王として立てたところ、再び戦乱は収まったと書かれています。

そのあと、壱与は266年に晋に使いを送ったのですが、それ以降約150年間、中国の歴史書から倭に関する記述が一切消えてしまいました。その間日本国内でどのようなことが起こっていたのかはいまだに謎のままです。 

 

邪馬台国は、近畿?それとも九州??

さて、倭国大乱の中で最終的に倭をまとめあげた邪馬台国ですが、その所在地がどこなのかというのは諸説ありまして、中でも「近畿説」と「九州説」の2つの説が現在も大きく論争を繰り広げています。

近畿説の根拠としては、卑弥呼が魏からもらったとされている銅鏡100枚は三角縁神獣鏡のことであって、それの多くが畿内で見つかっていることがその一つとしてあげられています。

近畿説」をとれば、そのあとに続く3世紀の「大和政権」はこの時代にすでに近畿地方から九州北部に及ぶ広大な政治連合を築いていたということが証明されます。

一方で「九州説」は、歴史書による邪馬台国の所在の記述を一つ一つたどっていけば、九州にたどりつくというのがその大きな根拠になっています。

この説をとるとすれば、その後に続く「大和政権」は、邪馬台国とは全く別に形成され、その後に九州の邪馬台国連合を吸収していったのか、または、邪馬台国の勢力が大和地方に遷都(東遷)したのではないか、と考えられています。

実は江戸時代に新井白石が「近畿説」、本居宣長が「九州説」をとって論争していたことがわかっており、この論争は江戸時代から今に至るまでずっと解決されていない論争となっているのですね。これを確定させる歴史的発見をしたら、教科書に君の名前が載ること間違いなしです。 

まとめ

というわけで、小国の王たちは中国に貢物をもっていきながら自分たちの地位を認めてもらおうとしており、そういう争いの時代を最終的に治めたのが、女王卑弥呼が支配する邪馬台国であったということですね。

しかしこのあと、約150年間の日本の歴史の空白の時代がやってきます。一説によれば世の中が再び乱れ目も当てられないくらい悲惨な争いの状況になっていたのではないかということも言われています。証拠となる史料が見つかっていないのでなんともいえませんが。

そしてその150年間の空白の時代を経て次にいよいよ、大王たちが巨大な墓をつくりあげた、古墳時代が到来します。カギ穴の形の前方後円墳は有名ですね。

次の章では、新たに迎える古墳時代というのがどんな時代であったのか、人々はなぜ大きな墓を築き上げたのかということを解説していきます。 

 

参考文献 

 安藤達朗『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』,東洋経済新報社,2016p38-p41
『詳説 日本史B』山川出版社,2017 ,p15-p18
向井啓二『体系的・網羅的 一冊で学ぶ日本の歴史』,ベレ出版,p34 p37 

 

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