生きるという中毒 -演じるとは何か-

大学はこんなところ; 専門科目の概要を少しだけ紹介します!

演劇、と聞くとあなたは何をどう思うだろう。

有名な劇団、小劇場、ミュージカルにシェークスピア、夢追い人、なんて言葉も浮かぶかもしれない。演劇とは何か。実を言えば、私自身もその答えを出せないまま学業を終えてしまった。しかし、これを考えるとき、必ず頭に浮かぶ光景がある。今回はそのシーンを思い起こしながら、これから演劇の道に行くかもしれないあなたに少しの希望と、問いかけを手渡そうと思う。

まず演劇とは「劇」を「演じる」ことを指すのだがこの「劇」とは、そして「演じる」とは具体的に何を指すのだろうか。

「劇」とはいわばドラマである。物事が動き、感情が動き、感動が生まれる一連の筋書き、いわゆる脚本、台本、戯曲と呼ばれるものをベースに成り立つものと言っていい。脚本や台本、戯曲の細かい違いについては割愛するとして、それらはすべて人によって想像され、創造される。人の頭の中で生まれ、文章あるいはセリフとして文字に起こされ創られるのである。

ではそれに対して「演じる」とは何を指すのか、少しずつ紐解いていこう。「演じる」にあたって一般的によく使われるフレーズとして「役になりきる」というものが挙げられるのだが、結論から言ってこれは不可能である。なぜなら、その役を創造したのは脚本などを書いた作者本人であり、その役の完成形は作者の頭の中にのみ存在するからである。人は他者の思考を100%理解することは可能だろうか。答えはもちろん、ノーである。「役になりきる」ことに執着することほど無駄な努力はないと言っていい。完成された人形のドレスを着ようと四苦八苦する人間を思い浮かべてもらえば想像しやすいだろう。着れないものはどうあがいても着れやしないのである。

ここでとあるシーンが私の頭に浮かび上がる。

大学1年生の春、最初の実技授業に対して言いようのない緊張感に身を縮こませて床に座り、その第一声に耳を傾ける私たちへ、ある客員教授が発した言葉である。いわく、「演じる」というものは、生きるという行為を何度も繰り返し摂取する行動に似ている、というものであった。反応に戸惑い、しんと静まりかえるスタジオ。その時ふと私の頭には、それはまるで中毒者のようだ、という言葉が浮かび、そのまま声にして呟いてしまっていた。にやり、と客員教授は笑い、以下のように続けた。

歴史的に著名な劇作家としてウィリアム・シェークスピアがいる。彼の代表作であるロミオとジュリエットという悲恋を描いた戯曲の一節、「おお、ロミオ、ロミオ!なぜあなたはロミオなの」というセリフは、皆一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。許されぬ恋に溺れたジュリエットがロミオを想い、悲嘆に暮れるシーンである。このセリフ、この一節のみを抜粋して耳にするととんでもなく陳腐なものに聞こえてしまう。まず恋愛を含む演劇と聞くだけでアレルギーを起こしてしまう人もいるのではないだろうか。そうでなくても、このたぐいのセリフを聞くだけでげんなりとしてしまう人の数は決して少なくない。なぜだろうか。それはまずをもってして役者が下手だからである。上手い役者とは何か、という議論は今回は割愛するとして、演劇というものにアレルギーを起こす人々の大抵は下手な役者に当たってきたことが多いと言える。「役になりきる」ことに重きを置き、人形のドレスを頭に乗っけたままの役者に、残念ながら出くわしてしまったのである。

客員教授は続けた。例えば、劇中でこのセリフをジュリエットが口にする背景を考えてみよう。わずか14歳にして名家であるキャピュレット家唯一の一人娘であるジュリエット。掌中の珠として蝶よ花よと愛されながら、一方では世間知らずと言われつつ、従順なまでに父母へ敬意を払い何事もなく過ごしていた彼女がある日出会ったロミオという存在。恭しく口付けられ頬を染めながら初めての恋に胸をときめかせていられたのもつかの間、ロミオが宿敵モンタギュー家の嫡男と知った時から、悲しみをひた隠しに、月が輝く窓辺へともたれかかり嘆くのは、愛しいロミオへの愛と悲しいさだめ。叶わぬ恋と知りながらそれでも相手を求めてしまうエゴに悩まされるこの場面は、周囲の言いなりであった少女の自我が抑圧を押しのけて初めて芽生えた瞬間をみずみずしく描いたものである。

この背景を一つのセリフに凝縮したものと考え、聞いてみるとどうだろうか。更にそこへ役者の個人的な経験が投影されればどうだろう、苦くつらい恋をしたことのある役者が、自身の実感とともにセリフや、目配せ、身振りを交えて発するとどうだろうか。それはもしかしたらとても切なかったり、胸を打つものになりはしないだろうか。「やってみた上でないと何もわからない」というのは、フランスの劇作家、アルベール・カミュの言葉である。身が引きちぎれようかというほどの恋に落ちたことがない者に、このセリフの真意は分かり得ず、そしてそれを表現することはできないのである。

つまり「演じる」とは、その役の一挙手一投足、セリフ、佇まいまでのすべてに自らの命を吹き込むことである。役者自身がそれまで培ってきた人生のすべてを、役に吹き込むのである。少し抽象的な表現になるかもしれない。しかし、その役者が今まで織り上げてきた人生という生地で、役というドレスを再現するのである。その再現性が高ければ高いほど、緻密であればあるほど、陳腐なセリフ一つをとってしても、観る人の心を動かすことだって出来る。そして役者は何度もそれを繰り返す。役に命を吹き込み、作り上げ、舞台に立ち、役として生き、時に死んで、また新たな役に命を吹き込む。いくつもの役を「演じる」ということはその数だけ「生きる」ことに等しい。「生きるという行為を何度も繰り返し摂取する行動に似ている」とはこれを指している。なるほど、と私は思った。

いわゆる売れない役者という人間がいる。マスメディアに取り上げられる役者という、ごく限られた存在の日陰ともいうべき場所で生活をしている人々がそれだ。彼らは日々オーディションを受けては落ち、時には受かり、それでもアルバイトをしながら生計を立てている。生活は決っして楽ではないにも関わらず、彼らの瞳は実にきらきらと光り輝いてこちらが引き込まれるほとである。なぜ彼らは演劇に携わり続けているのだろう。おそらくそれは彼らが舞台に立つ、すなわち役として生きることに魅了されているからに他ならない。一瞬の幸せのために苦楽を培い、また舞台の上でその花を咲かせる。彼らは(少なくとも私が出会ってきた役者たちは)幸せとも言うべき生涯の生きがいを演劇に見出したのである。それはもしかしたらあなたにも齎されるかもしれず、またあなたを虜にして離さないかもしれない。

さて、演劇にまさに今携わろうと考えているあなたには、その準備ができているだろうか。

参考文献
  • アルベール・カミュ「ペスト」
  • ウィリアム・シェークスピア「ロミオとジュリエット」
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