なぜ人を殺してはいけないのか?

これでもあなたも説明上手?; 説明がうまいと思ったエピソード集

当たり前のことを述べるようだが、人を殺してはいけない。これは、社会に生きる人間として私たちが幼少の頃から当前のこととして繰り返し教え込まれてきた、一般常識である。

この当たり前の文言、社会通念とも言うべき事柄に、疑問を覚えたことのある人はどれだけいるだろうか。なぜ、人を殺めてはいけないのか。この事を真剣に考えたことが、果たしてあなたはあるだろうか。そして、その疑問に対して納得できる答えを得ることは出来ただろうか。筆者は、とあるテレビ番組を通じてこの疑問を始めて抱き、考え、そして納得できた経験がある。「バカの壁」の著者である養老孟司氏による、バラエティー番組でのコメントであった。今回は、養老氏による解説がなぜ筆者を深く納得させたのか、それを筆者なりの解釈とともに説明しようと思う。

結論から言えば、人間は人間をつくることが出来ないから人を殺めてはいけない、のである。何をまた当たり前なことを、とあなたは思うかもしれない。しかし、そんなあなたに問いたいのは、当たり前とは一体なんだろう、ということ。そして例えば、幼少期の子供に対してその当たり前をどのように説明するだろう、ということである。

幼少期の子供、とりわけ所謂「なぜなぜ期」の子供ほどおそろしいものはない、と筆者は考えている。これは保育士である筆者の友人による体験談だが、「なぜなぜ期」の子供は、大人が普段なんとなく流したり、全体を把握してある程度理解するという妥協をまだ知らない。なぜ保育園に行くのか、なぜ勉強をするのか、なぜ将来を考えるのか、なぜ幸せにならなければいけないのか、なぜ生まれてきたのか、なぜ、なぜ、なぜ。大人が答えに詰まる子供の疑問は、枚挙にいとまがない。

そんな妥協を知らない子供たちがある日、テレビでニュースに取り上げられた殺人事件を目にするとしよう。有識者であるコメンテーターは鎮痛な面持ちでこう述べる。「絶対にあってはならないことです、かけがえのない命が失われたことが残念でなりません」と。そこでくるりと振り向いた幼気な瞳があなたを捕らえ、こう言うのである「なぜ人を殺してはいけないの?」と。あなたはなんと答えるだろうか。疑問の宝庫ともいえるその子供を納得させるべく、言葉を駆使するのだろうか。それとも、それが決まりだから、と妥協することを教えるのだろうか。前者後者、どちらの選択肢も正しく、その是非に関してはまたの機会に書くこととして筆者が今回伝えたいのは、前者を選んだ場合、子供ないし他人を納得させることが果たしてどれだけ難しいか、ということである。

当たり前のことほど、納得させることは難しい。しかし、その答えを持ち得る人間は実は一定数存在する。専門家、と呼ばれる人たちがそれである。知識人と言ってもいいかもしれないが問題は、その一定数存在する知識人の中で、一体どれだけの人数が子供を納得せしめるだろうか、ということである。

先に述べたように、子供の探究心、追求心には底がない。生半可な答えではとても太刀打ちできないことさえある。その上、専門的な用語を使おうものなら「なにそれ」で終わりである。子供のように純粋な疑問に対する適当な答え、またはそれに準ずるものを出せる人間は、知識人の中でも、わずか一握りしか存在しない。その内の一人として、私は養老孟司氏がいると感じたのである。

その理由を述べる前に、筆者がなぜこれほどまで子供に焦点を当てているかを説明しようと思う。端的に言えば、子供であったことがない大人は存在せず、子供が理解できることならば大人も理解できる、からである。感覚的なことは別と言っていいだろう。五感を駆使した表現など、むしろそういったジャンルは子供の方が鋭いということもある。ここで述べるのはあくまで理論的な理解力であり、大人の方が子供よりもそれが長けているという前提で話を進めていこう。

養老氏がどれだけ著名であるか、これは言うべくもないことであり、ここでは敢えて省かせてもらう。彼はその番組内で死という題材について、人体標本を用いて目に強く訴えかけたのち、最後の言葉をこう締めくくった。

100円ショップのカッターナイフで簡単に人は殺せる。しかし、同じ100円で人間をつくれますか。(つくれはしない)だから人の命は大事なんです

この言葉に筆者は、はっとさせられた。折しもその時期、とある殺人事件によって世間がこぞって命の大切さを説いていた頃であった。命は大事、誰もがそれを知っている「つもり」になっていた。少なくとも筆者は、その文言に疑問を抱くこと無くそのまま受け止めていたのである。その文言の深い意味を、考えるきっかけとなったのが養老氏のこの言葉であった。

100円、という言葉を氏は敢えて使ったのだと筆者は考える。命を奪うために払う対価として、100円という具体的な価値を提示したからこそ始めて筆者は実感し、納得させられたのである。この一言があるのと無いのとでは、天と地ほどの差がある。しかし、その一言をいとも簡単に言ってのける叡智が、養老氏を著名な傑物に押し上げたのかも知れないと思うと、ただただ頭が下がる思いである。

また、この番組における養老氏のプレゼンテーションの方法にも着目したい。彼は極めて理解しやすい言葉を意識的に選び、発言していたに違いない。テレビというメディアの特性、長所を存分に発揮するため、文字とは違う音の持つ力を重視していたのではないかと筆者は感じたのである。その証拠として、彼は抑揚を極力つけずに話していた。プレゼンテーションと聞くと人は一般的に自らの思考を大衆へ訴えかけるため、いわば傾倒させるために抑揚をつけて話すことをよしとしているのだが、養老氏はあくまでも平坦に、死に関して淡々と述べているのである。当たり前のことを、差し伸べるように話している。

当たり前のこと、とは本来こうあるべきなのではないだろうか。思うに養老氏は、解剖学者として、死や人の命を奪うという行為について一般の人々よりも深く考え、実感し、改めて当たり前のこととして捉え直す作業を何度も繰り返してきたのではないだろうか。その結果得た答えだからこそ、押し付けること無く、理解を強いることなく、私たちに合った形で差し伸べることができるのだと筆者は考える。少なくとも、事実として私はこの養老氏の言葉によって、自身の教養の狭量さ、考える力の不足を痛感したとともに、心から納得することができたのである。

与えられた知識を疑うことなく受け入れることは素直さの表れであるとともに、無知と紙一重であることを、私たちは今一度考え直さなければならない。当たり前とは何かを考え、実感し、自身の中で構築し直す必要があるのだ。それは例えば、一歩たがえれば過ちを犯しかねない子供という危うい存在に対して、納得に足る当たり前を差し伸べるために。

なぜ人を殺してはいけないか。その答えを、あなたは差し伸べることができるだろうか。

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